あらすじ
今から約30年前、”忠臣蔵”に似た事件が、都立駒込病院で勃発した。
”お家取りつぶし” ならぬ、”心療内科の廃止”が正式に通達された。
時代に逆行する“とんでもない誤った病院改悪”であったが、心療内科に通院中の患者さん達が大反対を始め、計画は”ひっくり返される”ことになった。
平成3年4月、服部信先生が金沢大内科教授から駒込病院に院長として赴任されてから、“心療内科は必要ない。精神科だけで十分だ”と事あるごとに強調され始めた。当時心療内科の科長であった河野友信先生は、攻撃の矢面に立たされ、大変な心労が重なり、結果的に聖路加国際病院に転出された。小生も河野先生が担当する患者さん達まで受け持たされ、一日80名近くの患者さんを診療せざるを得なくなり、夜間当直も重なり、“心筋梗塞”に倒れる羽目になった。危うく突然死に見舞われる所であった。幸いに日本医大の循環器科の名医、高野照夫教授のお蔭で一命を取り止めることができたが、一ヶ月間の入院治療を余儀なくされた。しかし退院後も、いたわりどころか”夜間当直に早く復帰しろ“ “入院患者をもっと入れろ”と圧力が続いた。
そして遂に(平成7年1月)足立副院長から私に”心療内科はなくし、精神科だけにするから”と伝えられ、保健所への移動を打診され始めた。東京都の職員相談室や労働組合にすがってみたが、“暖簾に腕押し”で全く無視されてしまった。
さすがにかなり落ち込んでいたのであろう、ある患者さん(Aさん)が、“先生何かあったんですか?”と心配してくれた。診療科の廃止と保健所への転出を説明すると、彼は、“それは大変なことじゃないですか!患者としては絶対認められません!! 先生を応援しますから、一緒に戦いましょう!!”と逆にハッパを懸けられてしまった。その後すぐに同じ考えの患者さん(Bさん、Cさん)が集まり、私に対する支援の会が結成された。
巣鴨の駅前の豚カツ屋に、患者さんが早速15名ほど集まり、今後の活動について討論した。みなさん、自分の病気で精一杯の方ばかりだったので、現在の病状の訴えが主になり、とても反対活動への議論までには進展しなかった。しかし、泣き崩れそうな患者さんを目の当たりにして、“まずは患者さんの治療を大切にしなければならない。政治的活動を優先せず、彼らの病気の悪化だけは避けなければ。”と心に誓った。
その後、患者さんの会が自然発生的に膨れ上がり、自民党から左翼政党まで、党派に偏らず反対署名が集まった。特に都立青山病院小児科の大滝千佐子先生が大活躍され、1000名近くの反対署名を集めて下さり、我々は大いに励まされた。
結果的になんと3400名以上という多くの都民の方々が、心療内科の存続を求めて署名活動に参加して下さった。いかに多くの方々が、”心療内科を頼りにされていたことの証し”だろう。この場を借りて、皆様に感謝の念をお伝えしたい。
患者の会の3人の代表者は、”反対運動のうねり″が日に日に増して行くのに力づけられ、反対署名活動と並行して、新たに就任された吉田恭院長と都知事あてに質問状や嘆願書を提出するまでに至った。文字通り自らの病気を忘れたかのように大活躍された。駒込病院や東京都庁内を、忙しく飛び回る彼らの姿は、いまだに印象深く、瞼に強く焼きついている。
余りの反対署名の多さに、病院上層部と、管轄する東京都衛生局病院事業長(大塚 俊郎氏)は慌て始めた。 反対運動が盛り上がり佳境に入った時、運動の初期から取材を続けられていた、読売新聞の若手記者が、院長と病院事業部長に正式面会を申し込んだ。それまで上から目線で、冷酷に対応していた彼らが、一転患者会の方々と私にすり寄り始め、”私が常勤で神経科の科長に就任し、心身医療科の外来も兼任する”という折衷案で折り合いがつき和解した。
H院長やA副院長も”けしからん”輩だが、一番悪いのは彼らに心療内科の廃止を指示した東京都衛生局病院事業長(後の副知事)の大塚俊郎 氏だろう。まだ存命されているのであれば、大塚 俊郎 氏には、これだけは言っておきたい。ただ野心だけで、“弱者のための心療内科”をつぶし、近視眼的に銀行税を導入し都民に大きな借金を残してしまった。都民に与えた精神的打撃と財政的な損害は計り知れない。当然何らかの形で罪は償われるべきである。
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