院長のひとり言
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開業は大成功
金沢大学医学部を卒業後、何科を選択したら分からず苦しんでいた。外科医が目標の一つであったので、手術の現場に立ち会わせてもらった。運悪く手術があまりうまく行かなかったため、凄惨な現場に遭遇し腰を抜かしてしまった。
金沢の冬の長さに辟易していたので、東京でのインターン研修を希望していた。
そこで都内の国立大や私立大の外科医局を訪問して回ったが、当時は学生運動の影響もあって、医局の研修体制がまだまだ不備であった。
結局行き先が見つからないので、癌のアイソトープ診療で有名であった母校の金沢大学の放射線科〈核医学科〉に入局した。
入局後にバセドウ病の少女の担当になり、多彩な自律神経症状の診断と治療に苦しむことになった。
その過程で”心療内科”の存在を知り、心と身体について猛勉強を始めた。 〈“医師として駆け出しの頃”を参照〉
その中でも、土居先生の“甘えの構造”を繰り返し読んでる間に、自分は“弱い人のために役立つ医者になろう!”という強い意思が 心の底から湧き上がってきた。
それは大げさに言えば、天からの負託を受けたような感覚であった。”これから自分は大東京の中で、不運や不幸に苦しんでいる人のために人生を捧げよう!“と、金沢から上京する新幹線の中で誓っていた。
上京した当時は“内科医で精神分析の出来る医者になる“ことが自分の大きな目標であった。
また同時に“弱い人のために役立つ医者を目指したい!”という意志も日増しに強まって行った。
しかし当時は”心療内科”という診療科名を知ってる人は、社会人にも医療関係者の中にもほとんどいない状況だった。心療内科と書ける人はまれで、診療内科と間違って書かれることが殆んどだった
内科医局に入局した後も、先輩から、”心療内科? なんだ それは? そんな事より、内科をちゃんと勉強しろ!!” と 軽蔑交じりに必ず叱責されたものである。
精神科医からも、”身体は内科、精神は精神科に任せておけばいいんだ。”
内科医なのに精神療法で見事に患者を寛解させた症例を報告をしても、”簡単な症例だから良くなったんだよ!” とか ”インチキぽくって信用できないな??” ”精神科の基本ができてない、一から勉強すべきだ!!” と とんでもないことを言ってくる輩も沢山いた。
もちろん、そのたびごとに相手を論破し打ちのめしてきたが、心身相関の病理を議論し合えず、入り口論に終始してくる相手に、正直疲れ果てる事が多くなった。
それまで心身医学会の学会誌に“心身症への分析的アプローチ”という題名で数例の症例報告を発表していたが、次第に心身医学会からも論文不適格の烙印がを続くようになった。
そんな時、悪いことに心筋梗塞に倒れてしまった。数年前に父と母を相次いで亡くした最中の出来事であった。
大学病院のCCUに入院中、モニター心電図を見ながら、多発する心室細動と、なんとも言えない気持ち悪い胸苦しさに直面し、死の恐怖におびえた。しかし日本医大の高野輝夫教授の冷静な治療のお蔭で一命をとりとめた。
危機が去ったベッドの中で、色んなことを考えた。
先ずは必ず禁煙する事。禁煙のためには各種のお茶による陶酔感が有効なことを発見した。
”心療内科のため“と意気込むことを止め、平凡な医者を受け入れること。
毎朝体重を測定し、毒“になるものは食べずに、過食と肥満を自己制御すること。
勉強より運動を重視し、体重を高校3年生時代の体重に戻すこと。
出されたメニューをすべて食べない。必ず残す。そこで生じる罪悪感を排除する。
良くわからないストレスに遭遇した時は(敵か味方か、AかBかで迷ったときは)、頭で考えずに”自分の心臓”にお伺いを立てる事。
心臓が嫌がることをしないこと。心臓が嫌がる相手は遠ざけること。
毎食後と夜間の合計4回、歯磨きを忘れないこと。
”歯”は”心の鑑”。歯を鍛えれば、心筋梗塞も防げるし、他の病も寄せ付けない。長生きも可能になる。
必要な検査を嫌がらないこと。 とくに胃内視鏡、大腸内視鏡、CT検査は、最低2年に1回は喜んで受けること。
やがて復職すると、駒込病院や衛生局から心療内科の廃止の方針が明らかにされた。しかし患者さんの猛烈な反対運動のお蔭で退職は免れることになった。
これは大変な快挙であり、3500名の署名で心療内科を支えて下さった都民の方々のお蔭だと深く感謝している。(“患者さんが大活躍”を参照)
籍は心療内科から精神科に移動になったが、心療内科の外来を担当して良いことになった。
しかし大学の精神科で本格的な研修を受けてないのに、都立病院の精神科の医長を続けることには正直抵抗もあった。
当時の駒込病院長の吉田尚先生に、この件を相談し開業を申し出ると静かに賛成して下さった。そして開業を続けながら、経営が安定するまでは、非常勤職員として駒込病院の心療内科外来を支えてくれと要請された。
結果として2003年12月末までの9年間、心療内科外来を維持することができたが、これもひとえに患者さん達の熱い支持によるものであった。
しかし開業するまでは、経済的に成り立つか不安でたまらなかった。
当時は国立大学出身の心療内科医で東京都内で開業した医師はゼロであり、自分が最初であった。
それほど、心療内科で開業する先生は少なかった。
それだけに不安でたまらなかったが、当時の自分は公私ともに追い込まれており、この窮地から抜け出す為には、開業という勝負に出ざるをえなかった。止むを得ずの正面突破であった。
しかし開業すると、予想外の展開を経験することになった。
“東大心療内科”や”都立駒込病院”という一流医療機関では経験したことのない現象。 患者さんが、とてもフレンドリ-に接してくれるのである。
それが大変大きな転機を自分に与えてくれた。“自分”を柔らかくしてくれた。
患者さんとの距離が縮まり、治療効果が各段に上がるようになったのである。
開業は大成功であった。
患者さんと自分だけの世界に浸れるようになった。
一人で孤独だが、己の世界を守れるようになった。
孤独がまったく苦にならなくなった。
患者さんの前の”自分”が、少しずつ見えるようになってきた。
どうすれば患者さんのための治療が可能となるかを創意工夫し続けている。
その時”転移”がいかに重要であり、色んな種類と操作方法がある感じ、研究中である。
学会からも距離を取り、一人静かに診療と研究の世界に没頭できるようになった。
学会で認められなくてもいいから、自分なりに捕らえた真理を論文にまとめて行こうと思っている。
金沢の冬の長さに辟易していたので、東京でのインターン研修を希望していた。
そこで都内の国立大や私立大の外科医局を訪問して回ったが、当時は学生運動の影響もあって、医局の研修体制がまだまだ不備であった。
結局行き先が見つからないので、癌のアイソトープ診療で有名であった母校の金沢大学の放射線科〈核医学科〉に入局した。
入局後にバセドウ病の少女の担当になり、多彩な自律神経症状の診断と治療に苦しむことになった。
その過程で”心療内科”の存在を知り、心と身体について猛勉強を始めた。 〈“医師として駆け出しの頃”を参照〉
その中でも、土居先生の“甘えの構造”を繰り返し読んでる間に、自分は“弱い人のために役立つ医者になろう!”という強い意思が 心の底から湧き上がってきた。
それは大げさに言えば、天からの負託を受けたような感覚であった。”これから自分は大東京の中で、不運や不幸に苦しんでいる人のために人生を捧げよう!“と、金沢から上京する新幹線の中で誓っていた。
上京した当時は“内科医で精神分析の出来る医者になる“ことが自分の大きな目標であった。
また同時に“弱い人のために役立つ医者を目指したい!”という意志も日増しに強まって行った。
しかし当時は”心療内科”という診療科名を知ってる人は、社会人にも医療関係者の中にもほとんどいない状況だった。心療内科と書ける人はまれで、診療内科と間違って書かれることが殆んどだった
内科医局に入局した後も、先輩から、”心療内科? なんだ それは? そんな事より、内科をちゃんと勉強しろ!!” と 軽蔑交じりに必ず叱責されたものである。
精神科医からも、”身体は内科、精神は精神科に任せておけばいいんだ。”
内科医なのに精神療法で見事に患者を寛解させた症例を報告をしても、”簡単な症例だから良くなったんだよ!” とか ”インチキぽくって信用できないな??” ”精神科の基本ができてない、一から勉強すべきだ!!” と とんでもないことを言ってくる輩も沢山いた。
もちろん、そのたびごとに相手を論破し打ちのめしてきたが、心身相関の病理を議論し合えず、入り口論に終始してくる相手に、正直疲れ果てる事が多くなった。
それまで心身医学会の学会誌に“心身症への分析的アプローチ”という題名で数例の症例報告を発表していたが、次第に心身医学会からも論文不適格の烙印がを続くようになった。
そんな時、悪いことに心筋梗塞に倒れてしまった。数年前に父と母を相次いで亡くした最中の出来事であった。
大学病院のCCUに入院中、モニター心電図を見ながら、多発する心室細動と、なんとも言えない気持ち悪い胸苦しさに直面し、死の恐怖におびえた。しかし日本医大の高野輝夫教授の冷静な治療のお蔭で一命をとりとめた。
危機が去ったベッドの中で、色んなことを考えた。
先ずは必ず禁煙する事。禁煙のためには各種のお茶による陶酔感が有効なことを発見した。
”心療内科のため“と意気込むことを止め、平凡な医者を受け入れること。
毎朝体重を測定し、毒“になるものは食べずに、過食と肥満を自己制御すること。
勉強より運動を重視し、体重を高校3年生時代の体重に戻すこと。
出されたメニューをすべて食べない。必ず残す。そこで生じる罪悪感を排除する。
良くわからないストレスに遭遇した時は(敵か味方か、AかBかで迷ったときは)、頭で考えずに”自分の心臓”にお伺いを立てる事。
心臓が嫌がることをしないこと。心臓が嫌がる相手は遠ざけること。
毎食後と夜間の合計4回、歯磨きを忘れないこと。
”歯”は”心の鑑”。歯を鍛えれば、心筋梗塞も防げるし、他の病も寄せ付けない。長生きも可能になる。
必要な検査を嫌がらないこと。 とくに胃内視鏡、大腸内視鏡、CT検査は、最低2年に1回は喜んで受けること。
やがて復職すると、駒込病院や衛生局から心療内科の廃止の方針が明らかにされた。しかし患者さんの猛烈な反対運動のお蔭で退職は免れることになった。
これは大変な快挙であり、3500名の署名で心療内科を支えて下さった都民の方々のお蔭だと深く感謝している。(“患者さんが大活躍”を参照)
籍は心療内科から精神科に移動になったが、心療内科の外来を担当して良いことになった。
しかし大学の精神科で本格的な研修を受けてないのに、都立病院の精神科の医長を続けることには正直抵抗もあった。
当時の駒込病院長の吉田尚先生に、この件を相談し開業を申し出ると静かに賛成して下さった。そして開業を続けながら、経営が安定するまでは、非常勤職員として駒込病院の心療内科外来を支えてくれと要請された。
結果として2003年12月末までの9年間、心療内科外来を維持することができたが、これもひとえに患者さん達の熱い支持によるものであった。
しかし開業するまでは、経済的に成り立つか不安でたまらなかった。
当時は国立大学出身の心療内科医で東京都内で開業した医師はゼロであり、自分が最初であった。
それほど、心療内科で開業する先生は少なかった。
それだけに不安でたまらなかったが、当時の自分は公私ともに追い込まれており、この窮地から抜け出す為には、開業という勝負に出ざるをえなかった。止むを得ずの正面突破であった。
しかし開業すると、予想外の展開を経験することになった。
“東大心療内科”や”都立駒込病院”という一流医療機関では経験したことのない現象。 患者さんが、とてもフレンドリ-に接してくれるのである。
それが大変大きな転機を自分に与えてくれた。“自分”を柔らかくしてくれた。
患者さんとの距離が縮まり、治療効果が各段に上がるようになったのである。
開業は大成功であった。
患者さんと自分だけの世界に浸れるようになった。
一人で孤独だが、己の世界を守れるようになった。
孤独がまったく苦にならなくなった。
患者さんの前の”自分”が、少しずつ見えるようになってきた。
どうすれば患者さんのための治療が可能となるかを創意工夫し続けている。
その時”転移”がいかに重要であり、色んな種類と操作方法がある感じ、研究中である。
学会からも距離を取り、一人静かに診療と研究の世界に没頭できるようになった。
学会で認められなくてもいいから、自分なりに捕らえた真理を論文にまとめて行こうと思っている。